これまで何度もテレビで特集が組まれ、ドラマ化もされてきた「福田和子事件」
同僚ホステスの命を奪い、整形手術を繰り返しながら時効まで残り21前にして逮捕‥!
日本初の100万円もの懸賞金がかけられ、世間を大きく騒がせた事件です。
次々と男を手玉に取り、逃げ続けた彼女の逃亡生活は何度もテレビで取り上げられドラマ化もされてきました。その一方で、愛する息子の秘話もあったようです。
今回は、福田和子事件について改めてどのような事件だったのか内容をまとめると共に、福田和子が激愛していた息子との生活や現在、そして事件の動機や福田和子自身の壮絶な生い立ちについても徹底調査してみました。
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福田和子事件内容【逃亡生活の始まり】
1982年、愛媛県にて。
福田和子(当時34)は夫、子供4人と温かく幸せな家庭を築いていた。家のローンを支えるため、ホステスとして家計を支えながらも、ハツミという偽名を使って愛人もいた。
和子は子供の面倒もきちんとみる母親であり、夫との関係も良好。まさに全てを完璧にこなす女だった。
しかし、愛人との密会のためマンションを借り、それに加え家のローン返済と、消費者金融数社から借り入れし、借金を抱えるようになっていた。
1982年8月19日。
和子は店でナンバー1だった同僚ホステスのマンションを訪ね、彼女の命を奪う。
A子さんの命を奪った和子は、夫に友達の夜逃げを手伝うことになったから協力して欲しいと連絡し、夫を呼び出す。
到着した夫に和子はA子さんと喧嘩になり襲われそうになったため正当防衛として命を奪ったと嘘の話しをした。
夫は自首を進めるが和子は、もし自分が捕まったら家族全員が苦しむことになると拒否。夫は和子に言われるがまま、A子さんの遺体と家財道具一式を運び出した。
そして驚くべきことに、A子さんの家財道具は和子が愛人と密会するために借りたマンションに運び込まれた。
また、和子は親戚に依頼しA子さんの預金通帳から約70万円の現金を引き下ろしたのだった。
犯行から5日後。
お金をおろすよう依頼した親戚の家に刑事から連絡が入った。何の事情も知らない親戚に和子は大丈夫だと電話で返事をし電話を切った。
その直後、刑事らしき男性から連絡が入るが、和子は咄嗟に声を変え娘のフリをし母はいないと話した。
そして、その夜和子は一人家族と暮らす愛媛県の自宅を離れたのだった。
ここから和子の逃亡生活が始まる。
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【あぶない あぶない‥】
その後、金沢にたどり着いた福田和子はスナックの仕事を見つけるが、電話で断られてしまう。
しかし、断られたスナックに客として飲みに行き、持ち前の人懐っこさでママに気に入られホステスとして働くことになる。
和子は、ママにはカヨという名前を名乗り、店ではシノブという源氏名で働き始め、すぐに整形をして顔を変えた。
その頃、夫は警察の取り調べに応じ全てを話し逮捕され、やがて夫の証言を元に山中からA子さんの遺体が見つかった。
また当時の愛人もハツミが福田和子であることを知り、ショックを受けていた。そして和子から連絡があったら録音するように警察から依頼された。
和子は、スナックで働きながらも愛人に電話を入れることもあった。しかし、警察の捜査をかく乱させるため、関西の公衆電話から連絡を入れていた。
愛人から「ハツミではなく福田和子なんだろう…?」と聞かれ、電話を切ろうとする和子。
愛人はもう少し話したいと言うが「あぶないあぶない 逆探知されたら困る」と言い電話を切った。
逃亡から8ヶ月。和子は印刷メーカーに務める男性と同棲を始めながらも、元々客受けがよかったことに加え整形により、沢山のお客がつき人気ホステスとなった。
そんな中、老舗和菓子屋の若旦那と出会い親しくなっていく。
印刷メーカーに務める男性からも求婚されるが、和子は和菓子屋の若旦那を選び、なんと同棲していた男性の家から家財道具を一式持ち出し、若旦那と同棲を始めたのだった。
若旦那には、小野寺カヨと名乗り京都の老舗料理店の娘だと偽った。若旦那には妻と子供がいたが、若旦那は和子と一緒になるために離婚したのだった。
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【和菓子屋/実の息子との生活】
1985年6月、逃亡から2年10ヶ月。
和子は若旦那の内縁の妻となり、和菓子店の女将として働き始めた。和子が女将になってから、新製品の開発にも携わり、店の売上も右肩上がりになった。
明るく人当たりのいい和子に若旦那の家族も和子のことを気に入った。しかし、若旦那が先妻との間に残した一人息子は和子に懐くことはなく、やがて先妻に引き取られた。
その一方で、和子は自分の息子(長男)と唯一連絡を取っていた。息子に会いたくて我慢ができなくなった和子は、危険をおかして愛媛まで会いに行く。
息子と再会した和子は、金沢で和菓子屋の女将をやっていることを話し、一緒に住もうと提案。
そして和菓子店につれて帰り、和子は息子を甥っ子だと偽り、大胆にも店で住み込みで働かせ一緒に暮らし始めた。
和子は息子を溺愛。息子も母と一緒に暮らせることにしあわせを感じているようだった。
また、和子には息子以外にも3人の子供がいたが、カレンダーに子どもたち全員の誕生日に丸をつけていたという。
【和菓子屋から逃亡】
逃亡から5年5ヶ月。
町内会の旅行で出かけた温泉にて、和子の指名手配のポスターを見かけた若旦那はカヨ(和子)に似ていると感じ、本人に「福田和子じゃないのか…?」と聞くが、和子はそれとなく話しをそらしてごまかす。
しかし、女将になって2年になるにも関わらず、なかなか籍を入れようとしないカヨを不審がった若旦那の姉は、甥っ子だと連れてきた息子の持ち物を調べる。
そして、運転免許書に松山出身であることが書かれているのを見つけ、警察に相談した。
1988年2月12日。逃亡から5年6ヶ月。
警察は和子逮捕へと和菓子屋を訪れた。その頃、和子は公民館にて知人の通夜の手伝いをしており店にはいなかった。
和子が公民館にいると知らされすぐに警察は逮捕へと向かったが、警察が来たことに気づき、和子は着の身着のまま逃げ出し、近くにあった自転車を盗んで逃亡した。
最愛の息子に別れを告げずに、金沢から離れたのだった。
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【逃亡の原動力となった和子のトラウマ】
その後、名古屋に到着した和子は倉本かおるという偽名を使い、市内ホテルの清掃スタッフとして働き始める。
しかし、テレビにて和子の事件は多く報道されるようになり、なるべく人と交わらず、1つの場所に3ヶ月以上いることは避けた。
1年間でも15箇所もの地を転々とし、再び整形を行い顔を変えながら逃亡生活を続けた。しかし、逃亡生活は困窮し、次第に生活は厳しくなる。それでも和子は逃亡し続けた。
和子が逃亡を続けるのには過去のトラウマがあった。
17歳の時、当時の恋人と強盗をし女子刑務所に入れられた和子。しかし、そこで男性受刑者が看守を買収し、和子の部屋に乗り込んできた。
和子は襲われそのことがトラウマとなり、もう二度と刑務所に入らないと逃亡の原動力になったという。
そして時は流れ、逃亡から9年の歳月が経った。
43歳になった和子は22歳になった長男と念願の再会を果たす。そこで、息子の婚約者を紹介された。息子の妻は、相手の母が福田和子であることを承知の上、全てを受け入れ結婚を決めたのだった。
【福田和子時効ギリギリでの逮捕劇】
それから6年後、1999年1月。
49歳になった和子は福井にいた。時効まで7ヶ月。
和子はレイコと名乗り、街のおでん屋に通うようになっていた。
この頃の和子は、復数のパトロンがおり金沢にいた頃のような輝きを見せていた。和子は持ち前の人懐っこさで、おでん屋さんの常連客たちにも人気者となっていた。
しかし、時効が近いているため、テレビや雑誌では次々と和子のことを取り上げるようになっていた。
そんな中、和子について取り上げられた特集番組にて、和子の肉声が流される。その肉声を聞いた常連客とおでん屋の女将は、レイコ=和子なのではないかと思い警察に通報。
女将は警察からレイコが店に来たら、指紋採取のためビール瓶やコップなど、触ったものを取っておいて欲しいと言われる。
しかし、時効成立まで1ヶ月を切ると、和子はパタリと顔を見せなくなった。
時効まで残り22日。
和子はおでん屋に現れた。女将はいつものようにビールを出し、和子は美味しそうに飲んだ。そして、和子が触れたコップ、ビール瓶、マラカスを保管し、警察に届けた。
酔った和子は、女将と常連客に、福田和子によく似ていると言われる、ママも自分のこと疑っているんでしょ…と冗談交じりに言った。
女将は冷や汗をかきながらも、そんなことないとはぐらかした。
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1992年7月29日。時効まで残り21日。
おそらく和子は、女将たちが自分の素性に気づいているだろう‥。和子はもう来ないのかもしれない‥。
しかし、和子は再び店に現れた。
そして常連客とカラオケを楽しんでいる間、女将の元に警察から指紋が一致したと連絡が入った。
女将は和子にバレないよう、警察に和子が店に今いると伝えた。
そして、警察が店の周りに待機し、和子が店を出たところで、逮捕。
時効成立まで残り21日のところで、福田和子の逃亡生活は終わったのだった。
【福田和子の最期】
和子逮捕の知らせは息子にも伝えられた。
おでん屋の女将は懸賞金を受け取ったが全て寄付した。レイコ(和子)はとにかくいい子で、誰もレイコのことを悪く言う人はいなかったという。
その後、和子は事件のあった松山に護送され刑務所に入り、やがて長男が面会に訪れた。
長男はこれで好きな時に会える…と涙し、生まれた娘の写真を見せ、出所したら一緒に暮らそうと伝えていたという。
その後、行われた裁判で和子は徹底して犯行の計画性を否定。計画性のありなしで刑期は大きく変わるため、息子と再び一緒に暮らすことを夢見ていたのかもしれない。
和子は最高裁まで争ったが2003年11月無期懲役が確定。
そして2005年2月、和歌山刑務所にて作業中、くも膜下出血で倒れ、翌月和歌山市内の病院に入院。知らせを受けた長男も駆けつけた。
2005年3月、和子は息を引き取った。
享年57。遺体は長男が引き取り丁寧に供養されたという。母親の人生に振り回されながらも息子は尊敬できる母だったと言い切り、母を愛していた。
(おわり)
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【福田和子犯行の動機】
A子さんの犯行動機については、当時売れないホステスだった和子がナンバー1だったA子さんに嫉妬しての犯行だと報道されています。
しかし、実際のところ和子は店でナンバー3であり決して売れないホステスだったわけでなかった。
また多額の借金があったことから、A子が持っていた金品や着物などを狙った金品狙いの犯行だったこと、A子にお金を無心したが断られたという説もある。
さらに、逮捕後に和子が話した動機では、和子が同性愛者でありA子さんとの恋愛関係でのもつれだったと述べていたそうだが、刑を軽くしたいがための嘘である可能性が高いとされており、認められなかったという。
いずれにしてもはっきりとした動機がわかっていないが、犯行後、家財道具や現金などを持ち出していることからも、金品目当ての犯行である可能性が高いのではないかと予想される。
【福田和子の壮絶な生い立ち】
また、逃亡人生も相当なものでしたが、実は幼少期の生い立ちがかなり壮絶です。
愛媛県松山市に生まれた和子。
1歳の時に両親が離婚し母親に引き取られるが、母親は自宅で売春宿を経営するという特殊な環境で育つ。
やがて母が漁師の男性と結婚。ところが、義父は他の女性を部屋に連れ込んで関係を持ち、和子はその現場を幾度となく目撃していたという。
再び母は離婚し、田舎特有の排他的環境にも耐えられず、母子で今治市に移り住みます。
やがて高校生になった和子だったが、交際していた同級生が事故死し、ショックの余り自暴自棄になり退学。
その後、18歳の時、新たな男性に出会い駆け落ち同然で同棲を開始。しかし、恋人と強盗に入り逮捕され刑務所行きに。
ところが、当時松山抗争で逮捕された暴力団関係者が、看守を買収し。和子がいた女子房に押し入り和子は何度も襲われてしまう。(松山刑務所事件)
このことがトラウマとなり、和子は絶対に刑務所に戻りたくないと逃亡生活をするきっかけや逃げ続ける原動力にもなってしまったのだった。
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【福田和子/一緒に暮らした息子(長男)の現在は?】
福田和子には4人の子供がいました。
和子が家を出た後、夫も逮捕されてしまったため、子どもたちは祖父の家で引き取られたという。
祖父の家では、子どもたちがニュースを見ないように配慮されており、子どもたちは母の事件のことを知らなかった。
しかし、不審に思った長男は自分で調べ母が起こした事件、いなくなった理由を知ってしまう。
また和子も逃亡しながらも、ちょくちょく長男とは連絡を取っておりやがて数年振りの再会を果たします。
そして和菓子屋に呼び寄せ3年間もの間暮らすという、久々に親子で暮らすことに幸せを感じていたようです。
しかし、和子が和菓子屋から逃亡し、息子さんも福田和子の息子であることがバレ、和菓子屋を退職。
その後、22歳の時に、息子さん後に妻となる女性を和子に紹介し、和子が逮捕されてからも面会に行き、娘の写真を見せたりと、母を大切に思っているエピソードがありました。
そして、和子が出所したら一緒に暮らそうと言っており、和子はまた息子と暮らすのを夢見てか、裁判に挑みますが無期懲役が確定。
その後、くも膜下出血で帰らぬ人となってしまったのでした。
こういったエピソードからも、長男である息子さんと和子との関係は堅い絆で結ばれていることがわかります。
和子の事件のせいで何度も転校を繰り返したという情報もあり、事件のことでいじめられたことがあったはずです。
それでも息子さんは母を恨むこと無く、一緒に暮らそうと母を待ち続け、尊敬できる母だと言っているそうです。
こういった話しからも幼少期に和子がいかに息子さんにとってよい母であり、愛情を注いでいたかがわかるような気がします。
それなのになぜあんな事件を起こしてしまったのか‥というところが、とても理解に苦しみます‥。
和子と交流を続けた息子さんですが、現在はご結婚され、お子さんも生まれています。
勤務先について、鉄工所を経営しているとの情報もありますが、確かな情報源が見つかりませんので、ガセネタである可能性も高いのかなと‥。
しかし、理解のある女性とご結婚され娘さんも誕生して、新たな家庭を築き幸せに暮らしているようです。
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