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わろてんかモデル吉本せいの生涯 夫や息子の死,笑いに人生を賭けた壮絶半生

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2017年後期の朝ドラとしてスタートした「わろてんか」

日本で初めて「笑い」をビジネスにした一人の女性の半生を題材にしたドラマです。

このドラマの題材となったのが、多くのお笑い芸人を今でも輩出している吉本興業の創設者「吉本せい」さん。

吉本せいさんがモデルとなっていますが、ドラマでは内容を大幅に変更し制作されています。

この女性がまた凄い…!

今回はわろてんかモデルの吉本せいさんの半生についてまとめてみました。

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わろてんかモデル 吉本せいの半生【幼少期】

明治22年(1889)米穀商を営む父・林豊次郎、母・ちよの三女として誕生したせい。

<兄弟>

兄:信之助、姉:きく(もう一人姉がいたが死去)

弟:千之介、正之助、勝、治雄

妹:ふみ、はな、ヨ子、富子

12兄弟の三女として、大阪にて育った。三男・正之助、四男・勝(のちに弘高に改名)は、せいの仕事に大きな役割を果たすこととなる。

せいは子供の頃から家業をよく手伝い、小学校に上る前にはひとりで店番し接客もしていた。

勉強もできたため女学校進学を検討していたが、当時の義務教育・尋常科4年生(当時の小学校最高学年)を卒業した11歳の時、実家を離れ、船場の実業家のもとに奉公に出される。

家業は繁盛していたものの、当時女性を学校に行かせる家庭は少なく、奉公に出されたのだった。

せいが奉公に出されたのは、江戸時代から代々続く老舗の米問屋。

炊事、洗濯、掃除や子守など女中として働いた。

奉公先では、月1円50銭支払われていたが、奉公人や女中が米を食べすぎては家計に響くと、漬物樽を雨がかかる場所にわざと出し、悪臭を漂わせることで、食を進ませないようにしていたという。

これに耐えかねたせいは、皆でお金を出し合って生姜を購入し、刻んでかければ悪臭も消えて食べやすくなると提案。

しかし、せいの提案はすぐに年配の女中の耳に入り、生意気だとひどい叱責を受ける。

奉公先の先輩女中からいじめや嫌がらせをされたこともあったが、持ち前の強さで気丈に振る舞っていた。

厳しい環境の中、こういった奉公先の倹約ぶりは後にせいのビジネスにとって大きく役立つことになる。

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【運命の出会い】

18歳になったせいは、両親が縁談を決め3歳年上の吉本泰三と結婚。

吉本泰三は大阪で5代続く老舗荒物問屋・箸吉の跡取り息子であり、温厚で愛される人柄であった。しかし、店の仕事は後回しに趣味の落語や芝居に没頭。

仕事もせずに寄席や芝居小屋に足繁く通い、家を留守にすることも多かった。

しかしその後、箸吉の経営状況が悪化。世の不景気の影響もあり家業は傾き続けた。

そして明治42年、市電開通のための道路拡張により、立ち退きを命じられ箸吉は廃業。

当時長女・喜代子を妊娠していたせいだが、夫・泰三は立ち退きの手続きや借金返済など全てをせいに任せっきりだった。

その後、せいは実家に戻り、旅巡業している泰三を待つことにした。やがて旅から戻った泰三もせいの実家に転がり込んだ。

居候暮らしも3年ほど過ぎた、明治45年(1912年)大阪天満宮の裏門付近にある寄席の第二文藝館が廃業になると聞きつけた泰三は買収して寄席を経営しようと言い出す。

しかし、店も潰し無職の泰三は無一文で資金がなく、せいになんとかしてほしいと頼み込む。

好きな仕事だったら泰三も働いてくれるだろうと、せいはなんとか資金を工面し、夫の商売に賭けたのだった。

【底辺からのスタート】

泰三には頼りになるビジネスパートナー・岡田政太郎(通称・黒政)という人物がいた。

岡田政太郎は銭湯の経営者だったものの株で大儲けをし、その資金を元手に寄席を経営していた。

岡田は一流寄席では相手にされない三流落語家を集め「浪速反対派」という派閥を立ち上げていた。

萬歳(まんざい)や軽口を叩く色物芸の芸人を集め、見物料1銭に設定したところ、これが大当たり。やがて「岡田興行部」を設立し各地の寄席に芸人の派遣を始めた。

(※当時一流芸人の見物料は15~20銭、喫茶店のコーヒー10銭の時代。芸人のランクによって見物料は変わってくる。)

やがて売れない三流芸人たちも仕事がもらえると評判を聞きつけ、岡田興業部に参加する者が増え始める。

泰三も岡田興業部と提携し、見物料は最低ランクの5銭に設定。庶民も気軽に入れる値段設定がうけ、第二文藝館は大繁盛。人気の寄席へと成長していった。

しかし、元々安い見物料のため利益は薄く経営はギリギリだった。

せいは200人しか入らない寄席に、無理やり300~400人の観客を入れさせ、売店にはあられやスルメといったしょっぱいものを売り、喉を乾かせることでジュースを販売。

暑い夏の日には、冷やし飴を売りさばくなど、アイディアと徹底した倹約を続けた。

さらに、せいは芸人の面倒も見るなど芸人の心も掴み、大きな利益をもたらしていった。

第二文藝館を繁盛させ、余裕ができたせいたちは、大正2年(1913年)には「吉本興行部」を設立し、直属の芸人や落語家も多数抱えるまでとなった。

そして大正3年(1914年)には大阪市福島の「龍寅館」、天神橋筋の「都座」、梅田の「松井席」、松島の「芦辺館」と1年の間に4軒の寄席を次々と買収し多店舗展開を始める。

泰三は次々と買収の寄席を見つけてくるものの、交渉やお金周りは全てせい任せだった。

更に、大正4年(1915年)には一流どころの寄席であるミナミの「金澤亭」が売りに出されているという情報を知る。

販売価格は約4000万円以上であり、誰もが躊躇していたが、泰三は過去に足繁く通った寄席であることからも買収の名乗りをあげた。

4000万円以上という大金。失敗したら大きな借金が残る…

せいは背水の陣で、夫の夢を叶えるために金策に走り、金澤亭を買収。「南地花月」と名を改めてスタートさせたのだった。

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【せいの右腕・正之助の活躍】

「南地花月」では人気落語家や名人が揃った構成にし、昔からここを拠点としていた落語家らも出演するようになった。

それでも見物料は10銭とライバル店の半額の値段で見れることから、話題となっていった。

一流の寄席を手に入れても、ターゲット層はあくまでも庶民を徹底させた。

事業の拡大の傍ら、せいと泰三の間には喜代子、千代子、峯子、吉子、幸子、邦子、泰之助、頴右(えいすけ)と9人の子供が誕生。

しかし、当時大阪を襲った伝染病により千代子、吉子、泰之助は生後間もなくして亡くなってしまった。

子育てをしながらも、寄席を次々と拡大し忙しい日々を送っていた。

しばらくして、当時19歳だった、せいの弟・正之助が吉本興行部に入社する。

正之助は「総監督」として幹部扱いであったものの、寄席の見回りや雑用、芸人の世話などあらゆる仕事をこなした。

当時、女性が仕事をするのは珍しい時代であり「女のくせに…」と、なめられることも多かった。

男性従業員や芸人が、女性であるせいから怒られることはプライドが傷つくといいことではなく、せいは厳しく言えない立場にあった。

しかし、温厚な泰三はそういったことが苦手。

そのため正之助が従業員や芸人の監視係として厳しく指導する役割を担い、正之助に厳しく叱咤された芸人をせいがフォローするなどして姉弟でうまく分担しながら切り盛りしていた。

さらにせいたちは次々と積極的に寄席の買収を行い、吉本興行部が所有するの寄席や演芸場は20軒を超えていた。

多くの劇場を所有するとなると、当然その分芸人の確保が必要となる。

そのため吉本興行部では人気芸人を月給制にし、他の寄席や劇場への出演をしない専属契約を導入。

泰三が売れると見込んだ芸人や落語家には次々と積極的に専属契約の話しを持ちかけていった。

時にはせい自身も交渉の場に足を運ぶことも多かった。

美男子で女性からアイドル的人気を得ていた三升家紋右衛門(みますやもんえもん)という落語家、さらに上方落語界で人気者だが破天荒な行動が有名な伝説の落語家・桂春團治を専属契約を交わした。

この人気落語家と専属契約を結んだことは吉本を大きく成長させた。

当時の桂春團治はその人気ぶりから専属の人力車を付け、やがては専用の寄席まで所有し派手な生活を送っていた。

しかし、桂春團治の寄席経営は傾きやがて多額の借金を抱えた。これを見計らってせいはすかさず借金を肩代わりし、桂春團治を専属契約させた。

さらに高額な給料を払うなど、桂春團治にはそれだけの価値があると見込んでいた。

こうして、せいは売れる芸人や落語家には惜しみなく金を払い確保を行った。

やがて、大正11年(1922年)には大阪18館、神戸、京都、名古屋など28館を所有。全国展開し規模拡大をしていった。

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【夫・泰三突然の死…ピンチをチャンスに】

勢力拡大をしつつも決して順調ではない時もあった。

大正12年(1923年)には東京大地震が発生。

東京や横浜が甚大な被害を受け都市機能は麻痺し混乱状態に。せいは親交のあった東京に住む落語家たちを心配するものの連絡が取れない。

すぐに、せいは東京に物資を届けに正之助や社員たちを東京へと救援に向かわせた。

家も仕事場も失い、着の身着のまま逃げ出した芸人たちも多く、吉本興行部の慰問団たちはありがたい存在だった。

これがきっかけとなり東京の芸人や落語家たちの心をつかみ、恩を返しに吉本の寄席に出稼ぎに来るものも多かったという。

東京で活躍する有名な落語家や重鎮も吉本が経営する花月にあがり、不況の中連日連夜大盛況となった。

大阪の落語家や芸人ばかりでなく、東京の落語家たちも吉本が独占するようになったが、落語の人気は下降気味となっていた。

そのためせいたちは、島根県出雲の民謡「どじょうすくい」に目をつけ、コミカルな装いと動きに、着物の裾をたくしあげた若い女性をバックダンサーに笑いとお色気という新たな芸風を生み出し、新たなブームを生み出した。

それに加え正之助は、落語の次は萬歳が来ると可能性を感じ、萬歳の興行にも勢力的に動いていた。

商売の方もしばらくは順調に進みそうであり、跡継ぎとなる頴右(えいすけ)も無事に1歳を迎えた。

しかしそんな中、夫・泰三が突然死してしまう。死因は脳出血または心臓麻痺だったという。

せいや吉本興行部にとって大事な存在を失ってしまった。

吉本興行部の衰退の危機も噂されたが、せいは亡くなった夫のためにも何が何でも潰さないと自分を奮い立たせ邁進していく。

【漫才の誕生】

泰三が亡くなった翌年、日本ではラジオの普及が始まり、せいたちは危機感を感じていた。

以前から正之助が萬歳がくると力を入れていたがより積極的に萬歳に力を入れていくことにした。

「萬歳」という漢字を「漫才」に改め、横山エンタツと花菱アチャコのコンビ「エンタツアチャコ」を誕生させた。

テンポの良いしゃべくりに流行ものや世相を取り入れて面白おかしく茶化すという、今でこそ定番の漫才スタイルを生み出し、当時は強烈なインパクトを与えた。

横山エンタツは中学を2年で退学した後、旅芸人の一座に加わり、満州の荒野を旅して回った後、萬歳師として大阪や神戸を拠点に活動していた。

しかし、いまいち売れず、一度は芸人を辞めて袋貼りの職人をしていた時もあった。

正之助も実はエンタツの芸を見たことがあり、もしかしたら相方に恵まれたら売れる芸人に化けるかもしれないと思い、吉本の専属芸人にさせたのだった。

そして、相方に花菱アチャコを抜擢した。アチャコは当時別の芸人とコンビを組んでいたが正之助が半ば強引に解散させ、エンタツと組ませコンビを結成させたのだった。

漫才については、せいは正之助に全てを任せじっと見守っていたという。

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【裏切り】

こうして半ば正之助によって強引に誕生した、エンタツ・アチャコは次第に大阪で人気芸人と成長していった。

正之助は漫才の人気を定着させるためにも、寄席場を漫才専用劇場としてリニューアルオープン。入場料は10銭と破格の値段に設定。

当時の銭湯の入浴料と同じであり、庶民も気軽に足を運べる値段設定にした。

これが「10銭漫才」と言われ大当たり。定員120名の会場も客が入りきれないほどまで人気となった。

しかし、こういった漫才の人気は、逆に落語の人気低下につながるため、吉本人気を支える落語家・桂春團治も黙ってはいないと予測された。

せいは桂春團治がへそを曲げないよう、惜しみなくお金をつぎ込み機嫌を損ねないようにしていた。

ところが、昭和5年(1930年)桂春團治は高額な出演料に目がくらみ、禁じられていたラジオに出演し吉本の掟を破ってしまう。

ラジオ放送が終わった後、桂春團治が自宅に戻ると吉本の社員たちが待ち構え、家財道具を全て差し押さえられてしまった。当時、桂春團治にはまだ吉本への多額の借金を抱えていた。

桂春團治は裏切りの代償の大きさを改めて感じせいの怖さを思い知ったのだった。

【改革】

しかし、この事件をきっかけにせいもラジオといった新しいメディアの登場には逆らえないと思い、うまく活用していくことを考え始める。

実際に、桂春團治のラジオ出演により寄席へ足を運ぶ客も増え、宣伝効果は抜群。

やがて、これまで敵対していたラジオを味方につけることにし、エンタツ・アチャコの漫才をラジオ中継を始め、これが大当たり。

放送後は、寄席に客が殺到し新たな客層の幅も広がっていった。

昭和7年に吉本興業合名会社と改名し、せいが社長に就任。正之助は支配人、そしてせいの弟・弘高が入社し、東京支社長に就任した。

せいとは19歳も離れた弘高は中央大学法学部を卒業した秀才だった。

弘高主導の元、東京・浅草にあった「浅草花月」は笑いに唄やダンスなどの踊りを加えハイカラ路線で打ち出した。

新たなスタイルが人気を得て、東京でも地盤を固めていった。

その他東京以外にも横浜、名古屋といった全国展開を次々と行っていき、吉本直営の寄席、演芸場、映画館は述べ47館にもなった。

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【せい贈賄疑惑と戦争の影響】

吉本の顔として絶頂期を迎えていたせいは、実務よりも慈悲活動を積極的に行っていた。

日露戦争の英雄に多額の見舞金を送り、日本赤十字社などの団体にも寄付を積極的に行った。

また火災や水害が起きた際にも、吉本興業とネームが書かれた服を来た社員たちを現場に派遣し救援発動を行ったという。

そういった活動がやがて認められ、大阪府から表彰を受けるまでに。蔑まれがちだった興行業界からのイメージ脱却を図ったのだった。

しかし、昭和10年(1935年)せいは大阪地方地検庁に贈賄疑惑で拘置所に収監されてしまう。

ことの発端は、せいと懇意にしていた大阪府議会議長・辻坂信次郎の脱税容疑による逮捕だった。

辻坂は落語などの芸能関係に精通した人物であり、興行界にも大きなパイプを持っていた。

地検では、吉本興業も辻坂に賄賂を贈りその見返りに多くの便宜を図ってもらたのではないかと、せいが拘置所に収監されたのだった。

しかし、せいは毅然とした態度を見せ、口を割ることなく、追求を巧みに交わした。やがて病気を理由にあっさりと釈放された。

主犯格の辻坂は、拘置所で自ら命を絶ち、事件は迷宮入りに。せいの疑惑も立証できずに終わったのだった。

やがて、吉本興業は、東宝と手を組みエンタツ・アチャコら芸人を映画に出演させたり、漫才のレコードを発売したりと新たに登場したメディアとのコラボを実現させていった。

吉本の落語を支えていた、桂春團治は病に侵され昭和9年に死去。

エンタツ・アチャコに続いてミスワカナと玉松一郎といった新たなスターが誕生し吉本興業所属の漫才師は落語師を遙かに超える200人の大所帯になっていた。

そして、吉本興業の勢いは留まることを知らず、やがて通天閣を買収するまでに成長する。

しかし、日本は戦争を始め、当時「笑うことは不謹慎」とされ、せいたちの劇場も制限をされるなど影響を受けた。

さらに吉本に所属する芸人たちも次々と徴兵されてしまう。

そして、昭和18年には通天閣近くで起きた火災の影響により、せいたちが買収した通天閣も被害を受ける。

物資が少ない戦時中、せいたちは通天閣の復旧を諦めざるを得なかった。泣く泣く軍事資材として寄付することにしたのだった。

戦争は激しさを増し、昭和19年にはついに吉本が経営する「大阪花月劇場」「南地花月」など繁盛を見せていた劇場の休業を命じられる。

ついに「笑う」ということが不謹慎であると国から禁じられてしまったのだった。

さらに、当時アメリカ軍の空襲に備えるため都市部では密集地で建物を壊し防火地帯を確保する「建物疎開」が行われ始め、せいが苦労して手に入れた「南地花月」もその対象となってしまった。

大阪の街も空襲を受け市街地は焼け野原に。吉本が所有する寄席や劇場の大半も焼けてしまった。

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【戦後の復興】

昭和20年日本は終戦を迎えた。

所有していた劇場の大半を失ったせいたちだが、終戦を迎え「笑いを許されなかった辛い時代、笑えない人が沢山いる。だからこそうちらが笑わせてやらなあかん」と奮い立つ。

正之助が焼けてしまった大阪の街を走り回り、やがてモルタルやバラックなどで修復させた劇場をオープンさせ、吉本芸能祭を開催するもの状況は好転しなかった。

しかし、正之助は米兵相手のキャバレーをオープンさせてこれが大繁盛する。水商売は初めてだったものの、店は黒字となった。

キャバレーの経営が順調であったことから、銀行から融資がおり、正之助はこの資金で劇場の再建を行った。

将来の娯楽産業として次は映画がくると考えた正之助は寄席や演芸場ではなく、映画館を作ったのだった。

演芸から映画へと吉本興業も変革を始めた。

そして、昭和22年には所属していた芸人を全て解散させた。ただ、一人花菱アチャコだけは契約解消を頑なに拒んだ。

この頃になると、せいは体調がすぐれないこともあって自宅で過ごす時間が多くなっていた。

しかし社長の座は辞さず、息子・頴右(えいすけ)にいずれ会社を継がせ、正之助と弘高らが補佐させるという構想を抱いていた。

【せいの息子・頴右の生涯 笠置シヅ子との恋】

大正12年に次男として生まれた頴右。

頴右が誕生した翌年に夫・泰造が亡くなったため頴右は父親の記憶がほとんどない。

やがて頴右は早稲田大学に進学し、20歳の時。

後に「買い物ブギ」や「東京ブギウギ」などで大ブレイクする笠置シヅ子と出会い、頴右は一目惚れ。

出会った当時、笠置シヅ子は29歳で、頴右よりも9歳年上だった。

頴右のアプローチにより、二人は恋愛関係となった。

しかし交際がスタートした翌年、頴右は結核を発症。笠置に看病され療養をしていた。

やがてせいも二人が交際していると知り、結婚の約束を約束をしていると耳に入った。

ところが、せいは二人の交際に大反対。

それでも二人は交際を続け、頴右は大学を中退し吉本興業東京支店に入社。

弘高の元で将来吉本を率いる社長になるべく修行に励み、笠置と仕事ですれ違いの日々が続くものの、愛を育んでいた。

せいの反対により二人は結婚はまだしていなかったものの、やがて子供ができた。次第にせいは結婚を許すことも考えていた。

ところが、頴右の病は重くなり、仕事が忙しい笠置も付きっきりで看病することが難しく、頴右はせいのもとで治療に専念することとなる。

実家に戻って療養していたものの、頴右の様態は悪化し24歳の若さでこの世を去ってしまったのだった。

頴右の死後、笠置は一人で子供を出産し、仕事に復帰。

やがて「東京ブギウギ」が爆発的な大ヒット。全国各地で公演を開き、頴右を失った悲しみを忘れるがごとく勢力的に仕事に没頭した。

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【せいの最期と吉本興業お笑いの復興】

昭和23年、「吉本興業株式会社」と改組し、せいは会長に、そして正之助が社長に就任した。

会長に就任したものの、せいは頴右を失った悲しみにより衰え、表に出ることもほとんどなくなっていた。

そしてせいも結核に感染しており、昭和25年、神戸の自宅にてこの世を去った。61歳だったという。

せいの死後も正之助は相変わらず精力的に動き、儲かる見込みがあるものには積極的に着手した。

戦後、映画に重きを置いていたが、花菱アチャコの存在もあり、再び演芸路線を復活させ、吉本新喜劇の前身となる「吉本ヴァラエティ」を立ち上げる。

吉本新喜劇がテレビで放送されるようになり、次第に専属芸人も増え始めスターも誕生。

テレビの影響もあってか、劇場にも客足が増えるようになり、こうして吉本興業はお笑い界の頂点へと再び君臨していくのだった。

(おわり)

わろてんかモデル 吉本せいの半生【感想】

まだ女性がビジネスで活躍するという風潮がない時代、せいは夫の事業を支え、夫の死後は弟たちと一緒に事業を拡大していきます。

しかし、決して順調とは言えず、語り尽くせないほどの多くの苦労があったことでしょう。

戦争に翻弄され、時代に翻弄されつつも、「お客さんを笑わせる」という信念を持ち、「笑い」に人生を賭け、逞しく生き続けたせいの生き様には感銘を受けました。

また吉本興業にこんな歴史があったなんて…!と新たな驚きや発見もありました。

ドラマでは、内容は大きく違って描かれているようですので、また違った面白さがあるのではないかなと期待できそうです。

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-ドラマ

執筆者:


  1. ゆきりんこと 山口雪江 より:

    吉本興業さんの歴史がしることができてますます吉本喜劇が大好きになりました。ますますのご繁栄をお祈りいたしますとともに笑いを届けていたことに感謝いたします。

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